ブルデューもこんなこと言ってた

iCloud上のメモを整理していて、しばらく前(2019年11月)に大学院の仲間たちと雑談しているときに書いたメモが出てきた。

 

社会科学における技術(わざ)の頂点にあるのは、きわめて重要な、いわゆる「理論的」問題と、じゅうぶんはっきりとしたいわゆる「経験的な」対象、ごく些細で、そのうえ取るに足らないものとみえることの多い対象とを結びつけることのできる能力です。社会科学では、対象が社会的・政治的に重要であれば、それだけでその対象を扱う発言の重要性も保証されたと考える傾向が強すぎるようです。自分の取り組む対象の重要性によって自分の重要性が測られると最も考えたがる社会学者、たとえば現在では国家や権力に関心をもつ社会学者が、方法論的手続きにいちばん無関心である理由はおそらくそこにあります。じっさいには対象をどのように構築したかという点こそが重要です。ある思考法の威力がもっともはっきりとあらわれるのは、社会的重要性の低い対象を科学的対象として成り立たせる能力のなかにおいてであり、あるいは同じことですが、社会的重要性を有する重大な対象を思いもよらない角度からとらえることで、その対象を科学的に構築し直す能力のなかにおいてです。

 

友人が、何かの流れで「ブルデューがこういうこと言ってるよ」って教えてくれて、かなりグッときて、この文章は折にふれて読み返してる。

 

それはそうとして、もう一つメモされていて、こっちのことはすっかり忘れてた。

博論に取り組んでいる今、しみじみ噛み締めた一節。

すべてのことに当てはまりそうな話だけれど、ブルデューもこう言ってたと思うと、ありがたみを感じる。

 

わざを継承する(p271)

・研究を合理的計画としてとらえる能力

投資の収益性を最大にし、使える時間をはじめとするもてる資源を最適配分すること